(過去の記事)
シェムリアップを離れて、コンポンチャンという田舎に行ったときの話。
どこだそれ?
コンポンチュナンじゃありません。コンポンチャンです。
私も1か月前に知りました。この2つ、違う町なんだね。
プノンペンの北東30kmぐらい。
シェムリアップからバスに乗って6~7時間ぐらい。
途中からひどい悪路が続きます。
(よく乗ったよ。念のためビニール袋をすぐ出せるところに用意して、深い眠りにつきました。無事、ショッキングな出来事もなく、到着!やったー!)
コンポンチャンと言って、一番有名なのは多分これだと思う、
スピアン・キズナ(絆橋)
コンポンチャンと対岸を結ぶ1360メートルの橋で、日本による無償援助で3年をかけて建設され、2001年に開通した。この橋の開通により、コンポンチャン州や周辺のクラチェ州、モンドルキリ州、ラタナキリ州など東北部の物流や人々の生活が向上したと言われています。
(地球の歩き方より引用)
500リエル札に描かれている橋は、この絆橋。
「ほー。」と思ったので、英語の授業の題材に採用!
スキット形式にしちゃうと、生徒によっては1週間で、すらすら~と暗記してしまうほど!
最近話題なのはスピエン・ツバサ。(翼橋)
これもプノンペン近くのメコン川に掛けられた、先月4月6日に開通した橋。
全長5400メートルにもなるこの橋は、日本が10年もかけて建設した。以前は、メコン川を渡るため、フェリーに乗るしか移動手段がなかったが、この橋が開通するにあたり、近隣住民の病院、学校、職場へのアクセスが大幅に楽になる。
また、メリットはカンボジア国内だけでなく、ベトナム、タイ、カンボジアを繋ぐ、南部経済回路として、東南アジア経済の発展をも促す。
(詳しくは、JICAのHP参照)
そういえば、シェムリアップーホーチミン間をバスで行き来したときに、
なんかバスごとフェリーに乗ってたような…(寝てたか酔ってたかのどっちかで、あんまり覚えてません。まあ、もうバスで移動することはないだろう…。)
さて、カンボジアに渡ってもう少しで1年。
出会った子どもたちは数知れず。
そうなると、別れた子どもたちもそれなりに多いのです。
田舎から、兄弟に連れられてシェムリアップへ出てきた末っ子の14歳の女の子。
私が日本語を教え始めたときから、一緒に日本語の勉強をしてきた子。
公立の学校には行かないで、フリースクールだけで勉強していました。
あまり勉強が得意ではない様子だったけど、私と一緒に勉強するのが楽しいみたいで、
周りの子に負けないようにと、頑張ってついてきていた印象。
授業が終わるたびに、私のところへ来て、拙い英語を使って、周りの子に手伝ってもらいながら、お喋りをしました。
お兄ちゃんのシェムリアップでの仕事を夕方から夜中にかけて、毎晩手伝っていました。
結局、その仕事は上手くいかず、田舎に帰ることになりました。
今も学校には行かず、田舎で家族の仕事を手伝っているみたいです。
シェムリアップ市内から車で20分ぐらいのところにあるトンレサップ湖の近くに住む、
しっかり者の15歳の女の子。
この子も、私が日本語を教え始めたときから一緒に勉強していました。
他にも年上の生徒がいる中で、誰よりも早く教えたことを習得していく、
教える側としても、とても気持ちのいい、教えがいのある子でした。
授業に休んだこともほとんどなかったのに、あるときから休むことが増えて、
ついに来なくなってしまいました。
他の子に聞くと、お母さんの仕事を手伝って、トンレサップ湖の近くの市場で服を売らないといけなくなったそうです。
学校の近くに住む15歳の女の子。
兄弟が9人ぐらいいて、いつも彼女が家族の世話をしていたそうです。
家族全員分の料理や洗濯で、毎日大変らしいのに、英語の授業には疲れも見せずにちゃんと出席していました。
ちょっと前にやっと公立の学校にも通えるようになって、1年生の教室で学んでいたみたいだけど、私の授業に来なくなったな、と思ったら、公立の学校も行かなくなってしまったそうです。家のことをしないといけないようです。
教育に携わってて、一番大きな喜びややりがいを感じられる瞬間って、
その子が、その地点では大きな大きな壁を乗り越える場面に立ち会う瞬間だと思う。
鉛筆の持ち方から教えたような子どもがいた。
その子と初めて会ったのは、去年の12月。
お母さんに連れられて、どこへ行くにも常に一緒にいるらしい、弟と一緒に、
勉強するために、田舎から出てきた。
鉛筆持てないの?
そんなの私の仕事ではないような気もしていたけど、
関わってしまった以上、誰もやらないなら、私がやるしかないなと思った。
線を引くこと、色を塗ること、なぞること…
そんなことを繰り返しながら始まった、名目だけは“日本語”の授業だった。
「あいうえお」がなぞれるようになって、今度は自分で書く段階に入るとき、
それが彼女の大きな大きな壁だった。
今まで経験したことのなかった苦しい壁だった。
私のお手製の「あいうえお」の練習の紙は4回書けるようになってる。
一度の授業では一回書けば十分のつもりでみんな使ってるんだけど、
その日は彼女の4度目の挑戦。
授業が終わっても、座ったまま書き切ろうとしていた。
今まで見たことのないような集中力と苦しそうな顔。
今まで身に付けてきた彼女の1日にできる努力の量はとっくに超えてた。
どんな言葉をかけていいか、迷った。
「やめてもいいよ。明日またやればいいよ。」
「嫌だ。やる。」
そう言いながらこぼれた涙は、きっとこの子の未来を創るための、肥沃な未来を創るための、大切な肥料なんだろうな、と思った。
今まで何度も流したことのある涙の中でも、今日のこの涙は、種類の違う、大切な涙なんだろうと思った。
大きな壁を乗り越える苦しみを知ったこの子は、もう大丈夫だろうと、出会ったときのことを思い出して、こっちまで涙が出た。
私の体力が続く限り、全力でこの子と向き合おうと、心の底から覚悟した瞬間でもあった。
…だったんだけど、最近田舎へ戻っていきました。
それがコンポンチャン。
久しぶりに会ったその子は、変わらず元気で、私の手を握って色んなところへ連れて行きたがった。
やめてくれ、そんなに共に時間を過ごすと、別れが辛くなる。
今まで通り、私は先生、あなたは生徒、それだけだ。
夜になったら、竹でできた家で、「あいうえお」やりたいって。
1か月振りぐらいの「あいうえお」。
「プレイック…」(忘れちゃった。)
そりゃあ、そうだよ。
「帰ってくる?」
「分かんなーい。」
知ってるよ。
シェムリアップに出てきたのは、子どもに勉強が必要だと判断したから。
でもそのためには両親は、新しい仕事を見つけて働かないといけない。
それがシェムリアップでは難しかったんだろう。
コンポンチャンに戻った真相はよく分からない。
私がコンポンチャンを出た後、この家族がどうなったかはここでは書かない。
私だって、真相ははっきり分からない。
その選択肢しかなかったとも思えない。
でもそれが、彼らの文化であるクメール語も解しないまま、彼らの生活の中に入っていった結果、私に残った苦い後味。
人生で、もう一度も会うことのないであろう、大切な人がたくさんいる。
昨日流した涙は、寂しさの涙なのか、悔しさの涙なのか、自分のためなのか、誰かのためなのか、分からなかったけど、大切な人にはできるだけ、迷わずに会いに行こうと思った。
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