(過去の記事)
最近、人に好かれたいと思わなくなった気がする。
もちろん、色々な人に会う中で、好きになった人には好かれたい。
たくさんの人がいて、大好きになる人もいれば、苦手だなと感じる人もいるんだから、相手だって私のことを、様々な尺度で判断するんだろう。
翻って、生徒には嫌われてもいいやと思うようになった。
親や教師って、嫌われ役を演じなければいけないときがある。
常に笑顔なんて振りまいていられない。
ときには一時間笑顔を封印。
…気付け!
笑顔を封印しているときの方が、ずっと苦しいんだよ。
与えても与えても与えても、多分その半分以下だって返ってこないんだろう。
ぷいって背中向けて帰っていく姿を見て、そんなことを感じる。
それでもいいよ。全然。
それでもまた続けるんだから。
何でそんなことできるの?って聞かれたら、
「使命感」とか「責任感」とか、ほんのちょっとはあるかもしれないけど、
そんなかっこいい答えでは返せないよ。
大部分は「自分のため」。
私も、実は彼らから与えられてるんだ。
「こんなにできるようになったんだね」っていう喜びと、
「さきー」って笑顔で歩み寄ってくるときの安堵感。
会った瞬間に発せられる、拙い「こんにちは」が心の隅っこまで満たしてくれる。
それから何よりも一番、
「あぁ、だめか」って試行錯誤の連続。
「次は違う方法を」って私に考える瞬間をたくさん与えてくれる。
私の将来の、あらゆる瞬間に、今のこの子たちはいるんだろう。
だからいいよ、嫌ってくれれば。
他の誰かのところへ喜んで飛んでいってくれれば。
ただ、私は勝手に歩み寄るからね。
知っておいてほしいのは、
子どもは勝手には学ばないっていうこと。
近くにいる大人によって育つんだ。
勉強が好きで好きでたまらなくて、目をきらきらさせて勉強する子どもなんてごく稀。
どこだって一緒でしょ。
普通にトイレにいくことや、
落ち着いて座っていることとか、
話をしている人の顔を見るとか、
鉛筆を握って紙に炭素をこすり付けるとか、
誰かが根気よく、それができるまで付き合うから身に付くこと。
じゃあそんな大人がいない子どもには、
私がその役をやろうか。
また今日も付き合うよ。
そんな、当たり前のように毎日側にいて、
絶対に裏切らないって信頼できる大人の存在が、きっとどんな子どもにも必要だと思う。
私がたっぷりと注がれたように、当たり前すぎて気付かないような。
それがあればいつか、他人に何かを与えることのできる人間に育ってくれるんだろう。
それが一つ、私の目指すところ。
初めての乗り越えるべき壁を目の前にする子にほくそ笑む
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